高校生の科学自由研究、日本と世界

高校生の科学自由研究、日本と世界

高橋正征(NPO法人日本サイエンスサービス代表理事)

 日本学生科学賞の総合委員(1986ー)、国際学生科学技術フェア(Intel ISEF)の特別賞(2004)、グランドアワード審査員(2005)を務めた経験から、日本と世界の高校生の科学研究について感じたことを、以下に紹介させていただきます。

グループ研究中心の日本 vs 個人研究中心の世界

科学自由研究の国際大会、国際学生科学技術フェア(Intel ISEF)では、個人研究が中心です。確かにグループ研究はありますが、それが設けられたのは最近のことで、しかも、3人までです。2005年の個人研究とグループ研究の数は、それぞれ1444件と232件です、個人研究が圧倒的な多さです。
グループ研究の審査では、14の各分野での評価を参考に、各分野とは別のグループ研究審査委員が最終評価を下していて、そこでは3人のそれぞれの役割分担(つまり、それぞれの個人の仕事内容)が吟味されます。審査では、全体の研究成果とそれぞれの個人の貢献度が評価されます。
一方、日本では、たとえば、日本学生科学賞を見ますと、スタートした当初は個人も団体も関係なく、研究成果が絶対評価されました。最近は、上位3賞は個人研究と団体研究に分けて審査されます。ただし、全体の傾向としては、個人研究の数が極めて少なく、団体研究が大勢を占めています。また、団体研究は、携わった各個人の貢献についての評価は行わず、あくまでも全体の研究成果が評価の中心です。
スーパーサイエンスハイスクールでも、個人の研究を伸ばすという姿勢よりも、グループ全体、あるいはグループとしてのより高い成果が期待されているように思います。
日本の中・高校の科学研究は、グループ研究に力点が置かれている印象をより強く受けます。したがって、グループ研究を支えている個人の研究力の訓練はお粗末な感じです。団体スポーツ競技では、まず、個人の高い技術力があって、それがチームとしてまとまって始めて強さを発揮します。研究も同じで、グループで進める研究であっても、個人の研究能力が磨かれていないと、グループとしての研究成果には限界があります。
高校生、指導の先生、大学や研究所のアドバイザー、JST、それぞれの立場で、グループ研究中心の日本の現状を見据え、世界の流れを真剣に考えて、対策を立てることを私は提案します。

“高校生らしさ”を要求する日本と、限界を定めない世界

日本では中学生、高校生のそれぞれに“らしさ”を期待する向きがあります。中学生だから、あるいは高校生だから、この辺で十分といった対応です。
しかし、欧米や日本以外のアジアの各国では、強い興味を持った子供がいれば、その子供が興味をもち、内容を理解して、必要な技術が習得できれば、大学生、大学院生、ひいてはプロの研究者と同じ扱いをします。米国では、インターンシップ制度が充実していて、大学の教員や研究機関の研究員が教育・研究指導を引き受け、中には大学院生と一緒にセミナーにも参加させます。そのために必要な費用は、様々な資金援助制度を利用することが可能です。研究成果も、一流国際専門誌にオリジナルな研究論文として発表させます。
国際科学技術フェア(Intel ISEF)のインテル特別賞の審査の折に、その責任者が最初に私たち始めての審査員に言ったことが印象的でした;「優秀な研究は、皆さんが大学で指導している最優秀な博士論文に匹敵するレベルです。」 話を聞いたときはイメージできなかったのですが、実際に研究作品の審査が始まるとたちどころに、その意味を理解できました。そのために、審査では、高校生が、どこまで自分でやったかどうかを見極めることが最も重要になります。
成長段階の子供たちに、本人が望むからと際限なく追求することを許すのは問題だ、という心配もある程度は理解できます。しかし、「高校生だから、その辺で十分。その先は興味があれば大学に行ってやりなさい。」といったのでは、能力があり、興味をもっている高校生は満足できないでしょう。無理に追求するのをやめさせたり、指導を放棄した時の子供の身になって考えると、むしろやりたいところまでとことんやらせ、そのために必要なアドバイスや指導をする、という対応の方が自然のように私には思えます。高校の現場で対応できないような問題は、スーパーサイエンスハイスクールを支援している大学や研究所に応援を頼むことができます。
植物の成長ホルモンによっておこる現象を実験観察でものの見事に解き明かした日本人高校生がいました。その研究の審査に当たった、国際学生科学技術フェアの審査員(各研究課題は、10人の審査員によって30分間のインタビューを含めて、個別審査を受けます)の大半が、個別インタビューの結果から、その高校生の植物ホルモンに関する基本的な理解がほとんどないと判断し、研究そのものの理解が不十分であるとして、極めて低い評価をしました。インタビュー前のポスターを見ただけでの事前評価では、その部門の最優秀作品でした。

個人の才能を伸ばす仕組みの発達した世界と未熟な日本

日本では、小学校3年生になると九九を習うといったように、それぞれの年齢で覚える、あるいは理解する内容が決められていて、それを同年代のできるだけ多くの子供(できれば全員)がクリアすることが、教育の目標になっています。そこでは、内容を簡単にクリアした子供が、さらに先に進むための指導は、ほとんど行われません。
国際科学技術フェア(Intel ISEF)に集まってくる諸外国の高校生たちを見、それとなく情報を集めると、高校生に学ぶ意思があり、能力のあることがわかると、際限なく指導してもらえるような仕組みが社会にできているようです。高校の先生が対応しきれなくなると、その部分は大学や専門の研究所で指導してもらえます。
ヒトは誰でも好きなことや得意なことを1つ以上持っていて、それを見つけ、本人にそのことを気づかせると、やる気が出てきます。言葉は適切でないかもしれませんが、子供のもっている「英才能力」を見つけ、それを本人に気づかせ、勇気づけてやることです。好きなことはとことん進めるように指導していくことによって、その分野では中学生や高校生のレベルを遙か超えたところに容易に到達できるはずです。それは、その子供の自信につながりますし、一つを極めていくことによって、不得手な部分も好きなことをやるために必要とあれば容易に克服していきます。
昔、私の中学校の同級生の一人が、アマチュア無線に興味を抱き、免許取得に必要な数学・理科・英語の勉強を独学で始め、クラスの中程だった成績が瞬く間に上位に食い込んでいきました。
個人の得意分野を発見して伸ばしていくといった教育や指導が、今の日本では極めて弱く、結果として子供たちのもっている能力を十分に発揮させていない感があります。大変残念なことに、それが多くの子供たちの自分からほとばしり出る向学心の醸成を阻害しているように思われます。よく話題に出る、「理科離れ」現象の根本原因の一つがその辺にありそうな気が私にはします。

※この記事は、2006年8月に開催されたスーパーサイエンスハイスクール(SSH)生徒研究発表会(文部科学省・JST主催)の基調講演の内容をまとめたものです。